【国指定史跡】侍塚古墳(さむらいづかこふん) 

公開日 2021年10月26日

いにしえのとちぎ発見どき土器わく湧くプロジェクト 上侍塚古墳・下侍塚古墳の調査

元禄5(1692)年に徳川光圀が発掘したことで知られる両古墳の調査を、令和3(2021)年度から栃木県教育委員会が開始しました。
発掘調査の活動内容については、下記埋蔵文化財センターのホームページをご覧ください。

 

【国指定史跡】侍塚古墳について

  • 指定年月日 昭和26年6月9日
  • 所在地 大田原市湯津上
  • 員数 2基
  • 製作年代 古墳時代
  • 大きさ 
    • 上侍塚古墳 全長114.0メートル 後方部長60.5メートル、後方部幅58.0メートル 後方部高11.5メートル 前方部長53.5メートル 前方部幅52.0メートル 前方部高6.5メートル
    • 下侍塚古墳 全長84.0メートル 後方部長48.0メートル 後方部幅48.0メートル 後方部高9.4メートル 前方部長36.0メートル 前方部幅36.0メートル 前方部高5.0メートル

 侍塚古墳は那珂川右岸の段丘上に立地し、上侍塚古墳・下侍塚古墳の2基があり、いずれも前方後方墳です。上侍塚古墳は栃木県内の前方後方墳では、足利市の藤本観音山(ふじもとかんのんやま)古墳に次いで第2位の大きさを誇ります。下侍塚古墳は上侍塚古墳の北方約800メートルの所にあります。

 元禄5年(1692)に徳川光圀の命により、日本で最初の学術的な発掘調査が上下両侍塚古墳で実施されました。この調査は現在笠石神社に祀られている那須国造碑(国宝)の碑主を求めての調査でしたが、それを明らかにするものは出てきませんでした。

 このとき鏡や管玉(くだたま)、壺(つぼ)など多くの遺物が発見されましたが、これらの遺物は画工に図化させた後に松板の箱に収められ、再び墓中に埋め戻されました。上下どちらの後方部墳頂にもその発掘の痕跡が凹地として今なお残っています。墳丘上には盛土の崩落を防ぐため松が植えられ、現在も美観を高めています。この調査後の古墳に対する保存対策の姿勢は、現在の文化財保存対策の一つの手法として生き続けています。

 出土遺物などの検討から、上侍塚古墳は西暦400年をさかのぼる時期に築造され、下侍塚古墳は上侍塚古墳に先立って築造されたものと考えられています。当時の発掘の様子は、大金重貞(おおがねしげさだ)が著した「湯津神村車塚御修理」や、光圀の家臣の佐々介三郎宗淳(さっさすけさぶろうむねきよ)から大金重貞に出された手紙をまとめた「佐々介三郎書簡」によって知ることができます。

 下侍塚古墳では昭和50年(1975)に土地改良事業に伴う周溝(しゅうこう)の発掘調査が実施され、古墳の規模、周溝の形状が確認され、さらに土師器(はじき)壺などの遺物が出土しました。
 

 上侍塚古墳

 下侍塚古墳

地図

侍塚古墳

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